Como estaの部屋

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戦前の笑いを知る唯一の生き証人 内海桂子師匠が逝く

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桂子師匠が毎月定期的に出演していた浅草東洋館

 8月22日、大師匠が旅立った(メディアでの発表は8月28日)。最後にナマで舞台を観たのは昨年11月・浅草公会堂の年1回の「漫才大会」である。その時の舞台では若手芸人に両腕を支えられながらの登場で、老いの進行は隠せず痛々しいものがあった。実は事前に、懇意にさせてもらっている漫才協会理事の大瀬うたじ師匠から今回が見納めになるかもしれないと聞かされた。うたじ師匠は数年前から東洋館に桂子師匠が出演する際には横で太鼓を叩きながら話の相手や持ち時間を計算しながら進行するケアマネージャーのような役目を務めていた方でいちばんよくコンディションをわかられている方である。1月の東洋館舞台を最後に入院されていたらしいが、だいぶ元気になられ、退院も近いと聞いていたので残念である。それでも生涯現役の手本であり、全うされたのではないか。

 相方の好江師が亡くなったのが97年なので漫才をリアルで知らない人も多いかもしれない。弟子であるナイツもお二人が生でやっている姿は知らないと言っていた。晩年はそのナイツによって知名度も上がった。ウッチャンナンチャンも弟子と云われているが、寄席の舞台には立ったことがないと思うので正直ピンとこない。同じマセキ芸能社所属ではあるが。漫才協会ではナイツよりだいぶ先輩の笑組(えぐみ)も弟子であり、高座でよく師匠のことを話していた。

一時期、やはり相方のいなかったあした順子師と漫才をやっていたことがある(昭和こいる師ともやった)。当時、桂子師は90歳近く、順子師は80歳ぐらいだったが、何と「AKB48」という名前で舞台に上がった。Aはあした順子のA、Kは内海桂子のK、Bはババア、48は「シワ」である。東洋館の入口にある写真入り看板には堂々と本日の出演「AKB48」と書かれていたが、このユルさがたまらなかった。実はこれの裏バージョンで「AKB84」というのもあった。Aは桂子師が住んでいる浅草のA、Kは順子師が住んでいる錦糸町のK、Bは同じババアだが、84は当時の二人の平均年齢である。大物ふたりの新ユニットと期待されたが、ナマでも観たが全く息が合っていなかつた。順子さんはやり辛そうで桂子師に気を遣っていた。ほどなく”コンビ解散”になったが、やはり好江さんなんだなと思ったものだ。

桂子師匠、最後にこれだけメディアに大々的に取り上げて貰って幸福者ではないであろうか。桂子好江でやっていた頃は東京のお笑いの中では大御所であり、知名度もあったが、若年層など幅広く知られるようになったのは好江師が亡くなってからである。24歳年下のマネージャー成田氏との結婚やtwitterの開始(アップしていたのは成田さん)、弟子のナイツの師匠ネタも貢献し、話題を提供してくれた。

9月1日から桂子師のホームグランドであった東洋館では漫才協会の定席が始まる。いろいろな芸人さんからいろいろな話が飛び出すであろう。桂子師など師匠モノマネをするオキシジュンや弟子であったナイツや笑組、最後の「パートナー」でもあった大瀬うたじ師の口から何が飛び出すか楽しみである。是非、笑で送ってあげていただきたい。